Art Works 作品集


Documentation of Exhibitions 展覧会記録
- 2003.12 Krakow, Poland
- 2007.2 Paris, France
- 2007.10 Kyoto, Japan

私の「書」

 文字が意味を単に伝達するためだけにあるのなら、文字を書きその形態に注意を払うことに深い意味はないはずだ。しかし、世界中で文字の技術への感性的(美的)反応が存在してきたことは、文字を書くことが単なる伝達の技術でないことを語っている。

  たとえば、昔の中国において書が絵画より価値あるものとみなされたのは、文字を書くことのなかに、人間の世界観がもっとも反映されると考えられたからだろう。この伝統は日本にも伝わっている。

  しかし、そうした世界観の表出としての書も、近世に入り道徳的な教養として制度化ししてきたことも確かだろう。とりわけ、近代以降、書は「文字をきれいに書く」技術として認定されてきたと思う。

  もちろん、この「きれいに書く」書は洗練された場合には美しいものであり、そうした技術をもつ書家も存在している。しかし、それらはいかに美しい文字であっても、そこには書くことの本来的意味が希薄だと考える。

  こうした近代の「きれいに書く」技術としての書は、日本において、第二次大戦後、一度克服された。井上有一や森田子龍を中心とした1950〜60年代の前衛書の運動である。そこでは、書くことの新しい意味が追求され、さまざまな試みが行われた。この運動は書にこれまでにないパースペクティブを与えへ、書の近代的造形性を発見した。

 こうした歴史を背負いつつ、私はまた別の観点から書に取り組みたいと思っている。それは、書の、というより文字を書く原点へと還ることといってもよい。人間の発話と書き言葉のどちらが早かったのかは議論のあるところだろうが、ある記号を物質に書き付けたところに文字は現れた。そこには文字という記号によって人間が世界と結ばれる喜びがあったに違いない。私はこの原点へと遡行したいと思っている。

  もちろん、現在はすでに文字が印刷として存在している。しかし、印刷された文字が文字として書かれること自体には、太古とは同じだとは言えないとしても、人間の文字記号の発見に類似した事態があるのではないだろうか。

  ある詩句の一節を筆の運動と墨によって別の文字記号へと変換する。それは、詩句の表出する世界が、別のかたちで世界に接続したということだろう。この接続を強く意識することによって、墨で書かれた文字には、詩句の表出するのとは別の、新しい世界が現出してくるだろうと信じる。詩句の可能性を無限に拡大するといってもよい。

  こうした世界を、私は墨のにじみやかすれ、また文字の配置や文字間の大きさなどの工夫によって想像し、具体化しようとしている。私にとって現代における書とは、印刷文字の転移による、言葉の新しい次元の創出といえるものである。

2004年11月