文字が意味を単に伝達するためだけにあるのなら、文字を書きその形態に注意を払うことに深い意味はないはずだ。しかし、世界中で文字の技術への感性的(美的)反応が存在してきたことは、文字を書くことが単なる伝達の技術でないことを語っている。
たとえば、昔の中国において書が絵画より価値あるものとみなされたのは、文字を書くことのなかに、人間の世界観がもっとも反映されると考えられたからだろう。この伝統は日本にも伝わっている。
しかし、そうした世界観の表出としての書も、近世に入り道徳的な教養として制度化ししてきたことも確かだろう。とりわけ、近代以降、書は「文字をきれいに書く」技術として認定されてきたと思う。
もちろん、この「きれいに書く」書は洗練された場合には美しいものであり、そうした技術をもつ書家も存在している。しかし、それらはいかに美しい文字であっても、そこには書くことの本来的意味が希薄だと考える。
こうした近代の「きれいに書く」技術としての書は、日本において、第二次大戦後、一度克服された。井上有一や森田子龍を中心とした1950〜60年代の前衛書の運動である。そこでは、書くことの新しい意味が追求され、さまざまな試みが行われた。この運動は書にこれまでにないパースペクティブを与えへ、書の近代的造形性を発見した。 |